「授業研究を楽しむ」(広島市教育センター所報)
広島市教育センターから依頼されて,先日刊行の運びとなった,同センターの所報に,拙稿「授業研究を楽しむ」を寄せた。次のような単文であるが,私の授業研究への想いを語ったものである。
授業研究を楽しむ 大阪教育大学・木原俊行
授業研究を楽しむ。そういう発想で,これを企画・運営できないものか。もちろん,この研究活動は,その企画・
運営に時間やエネルギーを費やさざるをえないため,ある意味では教師たちの負担になる。それは,筆者も重々承知している。しかし,それでもなお,「授業研究を楽しみましょう」と,あえて訴えたい。
どのようにすれば,楽しく,授業研究を推進できるのか。それは,まず,この営みをどのように定義するかに依存
する。授業研究を,だれかが研究授業を実施し,その問題点を見学者が非難する機会であると理解すると,痛みを味わいたくないから,多くの人がその実施を避けたくなろう。逆に,授業研究を,誰かが卓越した授業を実施し,その授業技術等を見学者に指南する場面であると把握すると,少なからぬ人が,その権威性に嫌気がさすだろう。
授業づくりがマニュアル化できない取り組みであることは,衆目の一致するところである。それゆえ,授業研究は,永遠に「正解」を得ることのできない探究であると考えるべきだ。そうした探究において大切なのは,非難や指南ではなく,「語り」である。換言すれば,研究授業を題材にして,同僚間で授業づくりに関するアイデアが交流させることが,授業研究の役割であり,機能なのだ。だから,教科書会社による指導書の展開をまねて上手に授業を進めるという保守性は,授業研究にはなじまない。実施する教師なりの「チャレンジ」がそこに組み込まれていた時に,「私も,似たような取り組みに着手してみたい」「そういえば,こんなこともできるかも――」といった,授業アイデアの環流は誘発される。
さらに,授業アイデアの交流は,いくつかの道具や環境設定によって,活性化し,充実する。例えば,授業を見学して抱いた「気づき」を付箋紙や授業評価シートに書き出し,それらを出し合って分類する活動を通じて教師間の意見交換を盛り上げる協議会が,学校現場に普及しつつある。 模擬授業を実施して,研究授業の実施前から,同僚間の知恵の共有化を図っている学校も珍しくはない。研究授業後の協議会の終盤に,研究授業や協議会における意見交換を踏まえて,各人が自身の授業改善プランを作成し,報告し合う場面を設定するという協議会のデザインを採用している学校も登場している。
つまり,考え方と工夫次第で,授業研究は,参加者全員にとって得るものが多い場となる。そうなれば,教師たちは「授業研究を楽しむ」時間を過ごせるはずだ。ここ数年,広島の地では,「授業研究を楽しむ」教師たちの姿が確実に増えていると感じる。その熱がいっそう高まり,またその輪がさらに広がることを祈念してやまない。
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